町名町域簡易紹介(新宿区四谷地区)
荒木町(あらきちょう)
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荒木町付近は、江戸時代、美濃国高須藩藩主松平義行(摂津守)の屋敷がありました。東側にある津の守坂(つのかみざか)通りも、摂津守の名が由来です。荒木町の名は、江戸時代にあった「荒木横町」に因んでいるようです。 荒木町は、西南部が昔の花街の雰囲気を残した飲食店街となっており、大手町や丸の内の方からも客が流れてくるなど商圏は広く、隠れ家的なお店や昔ながらの横丁的なお店も点在し、人気のエリアです。一方、北東部は事務所・店舗・住宅の混在する小さな建物の多い住居地域となっています。また、津の守坂通りにはオフィスビルも見られるなど、そんなに広い町ではないにも関わらず色々な顔を持っています。 南方に「慶應義塾大学病院」、北方に「東京女子医科大学病院」があり、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。 |
大京町(だいきょうちょう)
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町名の由来は、四谷大番町と四谷右京町を合併する際に、一文字ずつとって「大京町」としたようです。大番は、江戸城等の警護を任される旗本の精鋭であり、この地に屋敷がありました。右京は、昔この辺りにあった屋敷の主人の名に因むようです。この地域は江戸時代から、武家屋敷の建ち並んでいた、昔からの一等地でもあります。 大京町は、南北に700mほど、東西に300mほどの比較的広い町域で、西側は外苑西通りに接しています。大通り沿いは、オフィスビルやマンションが建ち並び、「韓国大使館韓国文化院」から「慶応大学病院」まで伸びる南北の区道沿いには小商店も見られるものの、大部分は低層マンションが建ち並び、戸建住宅も散見される住宅地域です。町内の(特に東西に延びる)道は、細い路地が多く、一方通行も多いため、車の通行はあまり多くありません。 町域の南側は「慶応大学病院」に隣接しています。町内にも「林外科病院」があるなど、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。 |
南元町(みなみもとまち)
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南元町の名前は、四谷区だった頃の南町と元町が統合されたことが由来となっています。その南町と元町は、明治の頃、「元鮫河橋南町」「元鮫河橋町」でした。鮫河橋の低湿地は、江戸期には花街、明治時代前期には貧民窟でしたが、明治時代の後期には都市化が進み、地価も上昇し、大正12年(1923年)の関東大震災を経て、貧民窟の面影はなくなったとのことです。ただ、このエリアでも、坂の上(高台)は江戸時代から大名屋敷が建ち並ぶお屋敷街でした。 本マンションの立地は、北斜面の坂を下り切ったところに位置し、北東側道路の向かい側には「みなみもと町公園」があります。ファミリー層にはありがたい反面、多目的広場では休日に少年団の野球チームが練習等を行っており、少し騒がしく感じることがあるかもしれません。 西方には「慶應義塾大学病院」がある他、徒歩圏に多くの医院があり、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。 |