町名町域簡易紹介(新宿区若松地区)

市谷台町(いちがやだいまち)
町名の由来は、単純にこの町域が台地の上にあるからのようです。坂下に位置する住吉町が昔は「市谷谷町」といったので、その対比のようなものでしょうか。その谷町から独立した際に「台町」としたようです。
江戸時代、備中松山藩板倉家下屋敷等があった場所ですが、明治期には、この一帯は市谷監獄となりました。幕末に筆頭老中であった「板倉勝静」への明治新政府の嫌がらせだという説もあるようです。
市谷台町は、台町坂を挟んだ両側に広がるこじんまりとした町域です。台町坂沿いは、少し背の高い建物もありますが、その裏手は低層マンションや戸建住宅が建ち並ぶ住宅地域です。
「東京女子医大病院」及び「国立国際医療センター」が徒歩圏にあるなど、大きな医療機関が多く、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。
河田町(かわだちょう)
町名は、昔この辺りが湿地帯で、川田窪ともいわれていたことに由来します。ただ、坂上の高台は、江戸時代から尾張徳川家を始めとする大名のお屋敷が建つ「お屋敷街」でもありました。
医療機関は、町内に「東京女子医大病院」があり、「国立国際医療センター」も徒歩圏です。お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。
住吉町(すみよしちょう)
この町域は、1952年まで「市谷谷町」という名でしたが、谷が続くと紛らわしいことと、住みよい町にという願いを込めて「住吉町」と改称されました。
住吉町は、靖国通りとあけぼのばし通り沿いの商店街を中心とした町です。都心に近く、新宿の繁華街も徒歩圏という立地ですが、下町的な雰囲気の残る街です。夏の祭りでは、神輿や盆踊りも行い、防犯活動も、年末だけでなく、毎週防犯パトロールを行っており、活動的でまとまりのある町会です。
あけぼのばし通り商店街を抜けると、「東京女子医大病院」があり、その北西方600mほどのところには、「国立国際医療センター」もあります。お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。
富久町(とみひさちょう)
地名は、明治時代に町が成立した時、「久しく富む町」にするという住民の願いから命名されたといわれています。
町内には、江戸時代に3代将軍家光の側室であり、家光にとって初めての子(長女)を産んだお振の方が葬られた、現在も残る「自證院」があります。
「東京女子医大病院」「国立国際医療センター」「慶応大学病院」という大病院が近く(1.5㎞圏内)にあり、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。
余丁町(よちょうまち)
町名の由来は、江戸時代、御旗組屋敷の横町(路地)が四条(4本)あったことから「東大久保四丁目」と俗称されたのに因みます。明治時代に、四の文字が”死”に繋がると現在の”余”の字に改め、大久保も取り外し、現在の「余丁町」となったとのことです。 余丁町は、斜めに余丁町通り(都道302号線の支線)が貫き、その上、外苑西通りの延伸工事が終盤を迎え、X字状の大通りに分断されています。町域の多くは、戸建住宅及び低層マンションが建ち並ぶ住宅地域です。 高台は、江戸時代から武家屋敷が建ち並んでいた、地歴も申し分のないエリアです。 「東京女子医大病院」や「国立国際医療センター」も徒歩圏にあり、お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。
若松町(わかまつちょう)
町名の由来は、江戸時代、この地の若松が正月用の門松として江戸城に献上されていたことに因みます。牛込台地の高台にあり、江戸時代は武家屋敷が連なっていた由緒ある土地です。
「東京女子医大病院」及び「国立国際医療センター」が徒歩圏にあります。お年寄りや子どもの急な病気等の際には安心な地域です。